冷静な悪あがき

タイトルに戒めを込めつつ、日々を記録。

John Heil の心の哲学・形而上学への態度表明を試みる (00)

2018/07/22 (Sun) 時点で
私の手許には John Heil の本が2冊ある。

  • John Heil (2003), From an Ontological Point of View, Clarendon Press.

  • John Heil (2004), Philosophy of Mind: A Contemporary Introduction, 2nd edn., Routledge.

Heil (2003) を少し覗いてみただけで分かるのは
存在論主導で心の哲学をやります」という Heil の態度表明だ。
私は、形而上学的考察の意義を認めているものの、
Heil にとっては間違った、Quine 的な形而上学観の強い影響下にある。
さらに、心の哲学においては、Dennett の強い影響下にある。

Dennett (1987), The Intentional Stance, The MIT Press の第10章、
「中間試験:比較対照せよ」から、印象的な箇所を引いておこう。

[…]厳格に言えば、存在論的に言えば、信念・欲求やその他の志向的現象は存在しない。しかし、志向的な言い回しは「実践的に不可欠」である。そして私たちは、Quine が「本質的に演劇的な」言い回し([Quine (1960),] p. 219)と呼んだものの中での、志向的な言い回しの使用を理解するために何ができるのか、考えてみるべきだろう。生の事実ばかりでなく、解釈の要素や、それに当たっての演劇的な解釈もまた、志向的な語彙のあらゆる使用において認識されることとなろう。
([ ]内は hollowtube による補足。)

この一節と、Heil 的な心の哲学の間に衝突があるのは明らかである。
困ったですね。

というわけで Heil (2003) を、出来れば批判的に、
検討してみることにしよう。
Heil は存在論形而上学に通じているだろうから、その分野については
勉強させていただこう。

シロップのラストライブについて (02)

――で、結局、『生還』が届くまで続きを書かなかったわけだが。

・・・。

――まあそこはいいや。なんか言えよ。

いまDVD流してる最中だけど、最初の方は「ちょっとあざとい」と思ったかな。

――??どこがよ。

なんか、ちょっと上手いじゃん。ハッキリ声が出てるとことかさ。

――それ、あざといのか?

う~ん。・・・ダイナソーJRが最初に解散したときって、別に前触れらしきものがあったわけでもなく、なんとな~くJが「やめる」って言っただけじゃない?

――うん。

シロップはそうじゃなかったじゃん。「もう引き際だ」って思ってたファンなんて一人もいなかった中で、「なんでやめるの?」っていろんな人が訊きに行って、音楽誌のインタビュアーも五十嵐の要領を得ない解散理由発言にイライラしてたしさ。

――そうね。

で、「バンドを終わりにする」ために、武道館であれをやったわけでしょう。やめろなんて誰も思ってないのに、五十嵐がそう言うんだから仕方がない、って無理矢理納得したわけだよ、こっちはさ。

――まぁそうだわな。

バンドはこれで終わった、って思って、でもCDはこれまで通り聴いて・・・ってやってたはずなんだ。ファンはさ。何故かひょっこり「ライブやる」っつって、単純に持ち歌をCD並の完成度で聴かせるだけだったら、極端な話、ファンにとっちゃいっつもやってることとほとんど変わんないわけさ。

――「ほとんど変わんない」は言い過ぎじゃね?生歌だよ?

「五十嵐やっぱり生きてた!」っていう感慨はあるかもね。

 

(もう寝たい。またしても続く。)

[2014/06/03 00:55]

やっぱり面白い

いつまでニュースのリンクが

切れずにいてくれるか分からんが、

書いておこう。

 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140504-00000076-spnannex-ent

 

茂木が

「小保方騒動」ではなく

「笑い」についてコメントしていることが、

実に印象的だ。